トップページ >> 玉乃光対談
~ 小林秀雄と里見弴 ~
淺野 :
田中町長さんが、小林秀雄さん、里見弴さん、堀口大學さんを花見に招待したことがあったんです。この奥に、天然記念物の枝垂桜があるんです。そこへ招待した帰りに、ここで一杯始まったんですけれども、初めのうちは里見さんがもっぱら話をされて、他の者が口を出すと機嫌が悪くなったんですね(笑)。
宇治田 :
里見さんはなんといっても長老でしょう。僕らが学生時代に盛んに小説を読んだんですから、戦後になれば大長老ですよ。
淺野 :
そのうちに酒が回ってきますと、小林秀雄さんの独壇場みたいになるんですね。で、里見先生がたまりかねて、壁のメニューを見て、「ここも天丼があるんだなあ」とおっしゃったんです。そうしたらコバヒデ先生、「なに言ってんだい、ソバ屋に天丼があるのは江戸時代からの常識だ」って。
宇治田 :
アハハハ。里見弴は作家の大長老だけれども、小林秀雄さんはなんといっても評論家だから、作家に対して遠慮がないわけだ。
淺野 :
取りつくシマがないというか……。里見先生、ムッとされたようなんですけれども、その話を伊藤玄二郎さん(鎌倉春秋社長)が朝日新聞に書かれたのがこれです。
このあと里見先生がまた、「ここの蕎麦団子はうまいんだよ」とおっしゃるんですけれど……ああ、ここです。
このあと里見先生がまた、「ここの蕎麦団子はうまいんだよ」とおっしゃるんですけれど……ああ、ここです。
「常識ヨ」といわれて、里見は一瞬ムッとした表情になって、手にした盃を卓上に置いた。だがそこは九十余歳の貫禄、つとめて鷹揚に言葉を継いだ。
「この店は蕎麦饅頭もうまいんだ。酒にだって悪かぁないよ」
今度も里見は小林の視線をはずして、下座にジイッと息を潜めているわれわれ一団に向かって話しかけた。
「何いってんだい。そんなこと当たり前だよ。永井荷風が、はしご酒の最後は汁粉を肴にしたってぇ話をしらないのかい」
(伊藤玄二郎『風のかたみ』より)
「この店は蕎麦饅頭もうまいんだ。酒にだって悪かぁないよ」
今度も里見は小林の視線をはずして、下座にジイッと息を潜めているわれわれ一団に向かって話しかけた。
「何いってんだい。そんなこと当たり前だよ。永井荷風が、はしご酒の最後は汁粉を肴にしたってぇ話をしらないのかい」
(伊藤玄二郎『風のかたみ』より)
宇治田 :
こういう掛け合いをやったんですね(笑)。
淺野 :
ええ、小林秀雄さんがね。
宇治田 :
小林秀雄は怖いものなしだ。
淺野 :
ええと、それから……。
小林は、妖刀を振りかざし直した。座のだれもが、この修羅場は、顔を伏せて受け太刀しないことが奥義であることを熟知していた。もちろん、僕(筆者・伊藤玄二郎)だって……。
しかし、里見のお伴で末席に連なっている郎党としては、返り討ちに遭うのに怯えながらも、たまりかねて口を切ってしまった。
「小林先生、さっきから何がうまいの、まずいのとおっしゃいますが、たしか先生は入れ歯のはず。そんな歯で物の味なんて本当にわかるんですか」
(中略)
「へえ、面白いことをいうじゃねぇか。入れ歯で味がわかるかっていわれれば、その通りよ、だけどおまえよく聞けよ。人間には、イマジネェーションってぇものがあってな、オレの頭には昔たたきこんだ、本物の味のイマジネェーションがあらぁな」
大きい目玉をギロッとむいて、小林は、僕を見据えた。次に飛び出す台詞をおもって、手は思わず首筋を摩っていた。投網をうったどころか、逆に捕らえられた池の鯉である。
そこへ運よく店の主人があいさつに出て来て、赤い花の咲いた蕎麦をうって、これから供したいと告げた。
「なんだと、赤い花の蕎麦だと」
鉾先は意外な方向へ進もうとしていた
しかし、里見のお伴で末席に連なっている郎党としては、返り討ちに遭うのに怯えながらも、たまりかねて口を切ってしまった。
「小林先生、さっきから何がうまいの、まずいのとおっしゃいますが、たしか先生は入れ歯のはず。そんな歯で物の味なんて本当にわかるんですか」
(中略)
「へえ、面白いことをいうじゃねぇか。入れ歯で味がわかるかっていわれれば、その通りよ、だけどおまえよく聞けよ。人間には、イマジネェーションってぇものがあってな、オレの頭には昔たたきこんだ、本物の味のイマジネェーションがあらぁな」
大きい目玉をギロッとむいて、小林は、僕を見据えた。次に飛び出す台詞をおもって、手は思わず首筋を摩っていた。投網をうったどころか、逆に捕らえられた池の鯉である。
そこへ運よく店の主人があいさつに出て来て、赤い花の咲いた蕎麦をうって、これから供したいと告げた。
「なんだと、赤い花の蕎麦だと」
鉾先は意外な方向へ進もうとしていた
宇治田 :
ちょうどいいとき、あなたは現れたなあ。いい話ですねえ。里見弴は九十過ぎですか。
淺野 :
ええ、もう九十を過ぎてらっしゃいましたね。
宇治田 :
あの人は長生きだったね。たしか九十五くらいまで生きたね。

