
2008年、源氏物語千年紀、光源氏の時代から1000年、日本酒は純米酒だった
室町時代(1440年代)、奈良菩提山正暦寺で現在の日本酒の製法の基礎が確立されたとされているが、それに先立つ平安時代(10世紀前後)に同じく奈良(南都)の寺院で「南都諸白」(なんともろはく)といわれる僧坊酒(寺院が造るお酒)が造られていた。
この僧坊酒は麹米・掛け米とも精白米が使われ、純米酒であったとされている。
以来、1,000年、日本酒は米だけを原料とする純米酒だった。
※源氏物語千年紀を記念して純米大吟醸こころの京を「源氏物語バージョンラベル」にて発売しています。商品についての詳細はこちらからご覧下さい。
しかし、1944年(昭和19年)、第2次世界大戦のさ中、食料難と戦地へ送る酒量を確保するため、国家の統制により日本酒に醸造アルコールを添加しアル添酒とすることが義務付けられることになった。
さらに、1949年(昭和24年)、国家再建のため、財政処置として当時横行していた闇酒を排除し酒税を確保することが必要とされ、闇酒より安い日本酒を公定価格で販売するため三増酒(元の日本酒の量の3倍になるまでアルコールを添加し、さらに飴・葡萄糖・グルタミン酸ソーダ等を添加した酒)が販売されることになった。
玉乃光酒造11代当主宇治田福時は、食料難が解消された時期を見計い1964年(昭和39年)、業界に先駆け純米酒を復興し発売した。

その前年、1963年(昭和38年)、試作した純米酒に自信を持った福時は、しかし、純米酒の原価高に苦しむことになる。
純米酒はアル添酒に比べ2倍の米の量が必要になる。そこで、当時の農林省や大蔵省に原料米にかかわる食管法の規制緩和や酒税の特例措置を求めるが、いずれも叶わず、やむなく、アル添の2級酒に比べ価格が2倍ほどの純米酒を「無添加清酒」(2級酒)として、翌1964年(昭和39年)発売に踏み切る。
(昭和39年発売当時の「無添加清酒」ラベル 別掲)
福時は、得意先・友人・知人・先輩を訪ね、「無添加清酒」の良さを説いてまわるが、その味わいは直ぐに理解が得られても、価格高のため販売は伸びず、販売面・資金面での苦労が始まった。
○二日酔いしませんしかし、この「無添加清酒」を味わった愛飲家の皆様から、「おいしい」「いくらでも呑める」「少々過ごしても二日酔いしない」との噂が少しずつ広がり、わずかずつではあるが、販売量は伸びはじめる。
この年は、当時の酒の世界的権威、東京大学名誉教授 坂口謹一郎博士が「日本の酒」(岩波新書)を刊行された年(1964年5月)でもある。 博士は同書の巻頭で、
「第二次大戦後、日本では洋酒の消費がどんどんのびるのにくらべて、日本在来の酒ののびがわるく、一時は斜陽産業のうちに数えられるようにまでなった。これは、一つには生活様式の変化よることもあるであろうが、それよりもっと大きな原因は、戦時戦後を通じての物資不足の結果から日本酒の業者が「質よりは量を尊ぶ」という方針にあまりにも忠実になりすぎたために、酒の質にいろいろな無理なギセイを払わせたむくいで、そのために大衆が本当の日本酒の良さを忘れかけたためではないかと思われる。」とし、
さらに、この文末で、
「世界の国々に特産する酒類は、その国独自のものであり、国民はそれに無限の誇りとあこがれをもっていることは周知のとおりである。世界の先進国のうちで、いずれの国が、自国の酒をいやしめて、他国の酒のみを尊ぶ国があるであろうか。わが日本に、もしそのようなことがおこるとすれば、それは一体どういうわけであろうか。酒を造るものは酒造家であるが、これを育てるものは国民大衆でなければならない。国民一般が多年の統制の結果、高貴な鑑賞能力を失い、真の酒の良さというものを理解できなくなり、また酒造家の方も自信を失ってしまったら、日本酒は亡びるよりほかはない。」として国家による日本酒に対する統制を強く批判している。
坂口博士は、同じく「日本の酒」の文中「真の日本酒」の項で、「・・・速成に口当たりのよいものを出すには、三増酒も全く捨てたものではない。これが果たして日本酒の堕落であるかどうか、三増法も将来を通じて許されるべきかどうかの判決は、今のところすべて
大衆の消費者諸君にまかせられているといわねばなるまい。」としている。
1973年、(昭和48年・会計年度以下同じ)、日本酒は課税移出数量で1,760千klと出荷量のピークを迎えるが、第1次オイルショックを契機に凋落の一途をたどり、30年後の2003年(平成15年)にはピーク時の50%を割り込み、2007年(平成19年)には40%を割り込んだ。
○ただし、落ち込んだのはアル添酒だけであり、純米酒は日本酒への逆風の中でしぶとく出荷量を維持し、2005年(平成17年)の酒税法改正(三増酒を日本酒から外し雑酒とした)からその勢いを増し、2007年(平成19年)には日本酒全体の中に占める純米酒の比率は12%を超えるに至った。
○坂口博士が「日本の酒」の中で、「三増酒も全く捨てたものではない。これがはたして日本酒の堕落であるかどうか、三増法も将来を通じて許されるべきかどうかの判決は、今のところすべて大衆の消費者諸君にまかせられているといわねばなるまい。」とされていたが、40年後その判決は出たといえよう。
○また、アル添酒の凋落で特筆すべきは、三増酒だけが激減したのではなく、三増酒を含めアル添の普通酒が激減しており、同じくアル添の本醸造酒は1993年(平成5年)をピークに激減、さらに、同じくアル添の吟醸酒・大吟醸酒は1996年(平成8年)をピークに漸減している。そして、純米酒だけがここ数年、増勢を続けている。
これは、日本の大衆消費者が「忘れかけていた純米酒への高貴な鑑賞能力」を、40年掛けて取り戻したことを示すものといえるのではないか。
玉乃光酒造は、純米酒のシェアが12%を超えたこの時期を「純米酒ルネサンス」の契機としてとらえ、今後一層、純米酒・純米吟醸酒・純米大吟醸酒等ほんものの日本酒造りに磨きをかけ、国内はもとより広く海外に向け、日本文化の誇りである「純米酒」の良さを伝えてまいります。
1964年(昭和39年)、宇治田福時が純米酒を復興させたとき、福時は孤立無援でした。しかし、現在は全国に純米酒を手がける蔵も数多く、これらの蔵を好きライバルとして切磋琢磨してゆく所存であります。
平成20年6月 玉乃光酒造株式会社
1964年(昭和39年)「無添加清酒」発売に際し、宇治田福時は、これを坂口謹一郎博士に贈呈したところ思わぬ賛辞の書簡をいただいた。(別掲)
福時は、この書簡に勇気づけられ「純米酒一筋」に邁進することを改めて決意したという。
「先生は、純米酒を本当に待っていたのだと思うよ。」と福時は当時を回顧している。





